私にとっての「丸 磐根氏」
小汀 泰久 |
2013.01.25
前松江商工会議所会頭 丸 磐根さんは、私にとって恩師のよう
な存在の方であります。
丸さんは、川本町のご出身で一橋大学を卒業、日銀入行。
日銀の局長を経て昭和63年山陰合同銀行の副頭取に就任、
平成4年から10年間山陰合同銀行の頭取を務め、平成12年か
ら22年まで松江商工会議所の会頭をつとめられています。
私が商工会議所の議員でなければ、まさに「雲上人」である方です。
その丸さんと昨日の会議所の常議員会の食事の席で向い合せに
座り、20分ほど歓談させて頂きました。
写真は、こうして親しくお声をかけて頂くきっかけになった隠岐の島
への視察の時のものです。
丁度この年の正月に長男剛史が、アメリカでロックバンドの活動をし
てCDを発売、日本でもライブ活動を始めるという時で、松江での後
援会を発足しようと思っていた時期でありました。
出雲空港を出るときに”意を決して”「長男が、アメリカでバンド活動
をしていて、今度日本でも活動をすることになったこと。アメリカでの
活動のために車を買ったり、支援をするために後援会を作りたい。
その後援会の会長をして頂きたい。」とのお願いをしました。
予め作成していた資料を飛行機の中で読んで隠岐についてしばら
くして「素晴らしい活動をされてますね。頑張ってほしいですね。
でも後援会の会長は、申し訳ないが出来ないです。そのかわり第
1号の会員には、なりましょう。」とおしゃって頂きました。
息子のバンドが松江のユーラスでライブをした時には、商工会議所
の役員10人余りの方と一緒に来ていただきTSKのテレビ取材が来
ていた時にスタジオの中でインタビューに答えて頂いたこともありま
した。
丸さんは、映画や音楽、絵画など芸術にも大変な見識を持っていら
っしゃり、ある雑誌には、映画の評論も載せていらっしゃいます。
その他、合銀の宍道湖がよく見える広い応接室で何度か時間を割
いていただき色々な報告をしたり、お願いをしたこともあります。特
に異業種交流会の定例会に「中国情勢について」という演題で講師
をお願いし、打ち合わせに伺ったとき担当秘書の方が「よく受けて
頂かれましたね。」と不思議がられました。当時外部からの講演依
頼は全て断られていたようです。
私が、丸さんを意識したのは出雲大社の神門通りを歌舞伎役者の
<お練り行列>があった時に丁度、休店日で見学に行ってその行
列の中でその姿勢や貫録と言いますか一際、印象が強く残ってい
ます。昨日も御奥様の体調のことやら息子様、お嫁さん、お孫さん
のことなど、今まで聞いたことのないいろいろな話題の中で、私が
その大社での<お練り>のことをお話しましたら「私が忘れている
ようなことまで覚えていて頂いて」と懐かしげに喜んでいただきまし
た。
私が今日、商工会議所のなかでの立場を与えて頂き、県や市の審
議会の委員派遣や中心市街地活性化委員長を8年の長きに渡っ
てさせて頂いているのも丸会頭(当時)の推薦があってのことであ
り、まさに恩人であります。
急にこんなことをこのブログにアップするのは、昨日の会話の中で
丸さんの口から出た言葉がとても気になってです。
いずれこのことは近い将来、この松江にとって島根にとっての
『一大事!!』になるのではと思われます。